高城合戦とは

九州の関が原といわれる二度の合戦は、

 天正6年11月12日(1578)第一次高城合戦『大友と島津との高城川合戦』と

 天正15年4月17日(1587)第二次高城合戦『島津と秀吉の高城合戦』です。

第一次高城合戦

高城から南を望む景観で、島津義久の陣がありました。

山田有信が守った高城跡図です。高城は東・南・北は絶壁で容易に登れす、西は七つの空堀を設けていました。

第一次高城合戦の両陣営の配置図と戦いの図です。



下鶴が戦場となった第一次高城合戦

 大友軍の総攻撃で山田有信が守る高城は今にも落城するかに思われたが、さすがに島津の抵抗は厳しく落とすことはできなかった。

 大友軍は勝ちに乗じて殺到、高城川を渡り追撃したが、大友勢は大軍でしかも若武者は我もわれもと先陣の功を競い、統制もとれぬまま川に乗り入れたが、早朝からの疲労をかさなり大混乱になる。

 そのときさすがに、島津軍は合図のもと川上の伏兵が大友勢の横を突き、さらに川下の伏兵が大友軍の正面を突く。戦い半ば島津軍は川を渡り敵の背後を突く、総大将の島津義久も川を渡り敵の背後に回る。高城で籠城していた山田有信も城門を開き加わる。

 三面の島津の攻撃を受け、大友軍は土地の案内もなく一目散に退散するが、大友軍にとって不幸なことに、その全面には広大で深淵な「ダゲキガ淵」があり、馬を乗り入れた騎馬隊はことごとく追い込まれ、深淵に足を取られた者は溺れ、討たれる者、その数しれず。さしもの深淵も浅瀬になり、淵は紅に彩られ、「討つ敵は龍田川の紅葉かな」の如きさまであった。

 


第二次高城合戦(根白坂夜襲戦)

 耳川を渡った秀長の軍は、戦場を高城の地と定め、高城を包囲し、高城・高鍋間に五十一箇所の塁塞を築いた。

 山田有信らは城に入り、兵千三百余りで防御を固めた。

 高城を包囲した秀長軍は鉄砲、火矢、火石などで攻めたが、なかなか落とすことはできなかった。

 二十万の大軍で一気に攻めれば、なんなく落とせたと思われるが、薩摩からの島津本隊との決戦に備えていたものと思われる。

 

 島津義久は、兵二万余りを率い、秀長軍宮部らの守る根城坂の営に夜襲をかけた。

 宮部継潤は、あらかじめ頑丈で深い壕を掘らせ、壕の淵に土居を築き竹木で柵を厳重に作り夜襲に備えていた。

 島津軍は壕の死者を乗り越え乗り越え、死傷を省みず肉薄突破を試みるも果たせず、宮部軍は藤堂高虎、秀長の軍の来援をうけ共に奮戦して夜を徹して戦い、黎明黒田官兵衛、小早川等が加わり、薩摩郡は大いに敗れ、退却した。

 この根白坂の夜襲戦は豊臣秀吉が九州を制覇をなしとげた九州での天下分け目の戦いであった。

 高城は最後まで落城しなかったが、秀吉は義久の和議を許し、山田有信は戰いの26日後に城を明け渡した。