大阪西野塾たより1

西野皓三先生との対気

 一ヶ月の農作業が問われるときがきました。

 農業と西野流呼吸法は繋がりがないようにおもわれるが、根の部分でしっかり繋がっているのです。

 

 真剣に農作業と向きあうことは、裏を返せばいかにからだをゆるめ自然に接するかということです。

 

 西野皓三先生との対気は、愉しみと慄きがあります。

 不思議なもので、頭脳知が働くのは対気が始まるまで、

 西野先生と目があった瞬間、すべてが消え、宇宙語が飛びだすのです。

 

 宇宙語は翻訳できないので伝えることはできないが、

 気の世界は感性の世界、イメージ的には菜の花畑に遊ぶて蝶々のようなもので、すべての細胞(からだ)が悦びに打ち震えている世界です。

 

 からだがゆるみきれてないと西野先生の気が無限大に入ってこず、エネルギーを充満できないが、

 無意識にエネルギーを足芯に吐き下ろすと、からだが徐々にゆるみだし、気が爆発的に流入してきます。

 

 足芯呼吸の妙味はまさにそこにあります。

 呼吸すればするほど気に充たされるわけで、エネルギーの限界点を超えてからだをゆるめられるかです。

 

 宇宙語が最高潮に達したとき、エネルギーがオーバーフォローし、異次元にワープしていくが、毎回どの異次元にいくのか見当がつきません。

 

 エネルギーの爆発をながめながら不思議な光景を見ているわけで、なぜこれまで肉体が夢幻に動くのだろうか。

 

お楽しみ会

 お茶を飲みながらケーキを食べ、いろいろな話題に花が咲くが、

 やはり西野流の話が愉しい。

 集まるメンバーも毎回違うが、会員は20名ぐらいいるようだ。

 

 稽古をしている年月は長いが、西野流がわかっているのかというとそうではないところがおもしろい。

 

 まさに西野流は、頭で身体を動かす呼吸法ではないので、理屈で分かる必要はないが、本音を聞いてみると、お金と暇をかけて稽古に来ているが、道場で稽古するだけでサッパリ要領を得ないという人が多い。

 

 これだけ素晴らしく、奥が深く、深遠な西野流を、道場だけでなく

 お金、時間もかけず、自宅で練習しないことが不思議でならない。

 

 その原因は、からだで、『丹田、足芯、百会、一元充足、三元充足、四元充足』をとらえてなく、それだけ練習をしてないことに尽きるのです。

 

 どんなことも練習・稽古せずに習得できないことは普遍の原理だが、

 気の世界なので、自分一人で稽古はできないと想っているからではないか。

 

 毎回全員で呼吸法をしているので、それを自習すればことたり、

 秘伝はその中に数多あります。

 むずかしいことではないが、ほとんどの人は行っていない。

 呼吸法の意味を深く考えている人は少ない。

 

稽古再開

 熱心に稽古をしていた人でも、いろいろな事情で姿を見せない人がいます。

 浮世の困難なことを、西野流でサラリと流せられるのにと、気楽なことを想っているが、現実にはそうもいかないものです。

 

 私の旧友で有名人のYさんが今月から稽古をすることになった。

 

 西野流の真髄は、長いこと休んでいた人が稽古を再開した姿です。

 通常であれば、稽古をしていなければ調子が上がらず、元の木阿弥になっていくのが常識だが、止めたときと同じ反応で、とても長いこと稽古していなかったと見えないことです。

 Yさんの対気の姿を見て、西野流の真をみた感じがしました。

 来なくなったときと同じ反応をし、何事もなかったように対気をしています。

 

 西野流の不思議さは、まさにここで、からだ(細胞)に気がとおるようになると、頭脳ではわからなくても、からだでキャッチしているところだと想っています。

 

 これを別の表現でいうと、ソフトウェアは気のとおるからだになると、死ぬまでからだは気を認識できるが、肉体、ハードウェアは日頃から鍛錬をしていなければ、それに応じて肉体的に動けないのです。

 

 気のとおるからだ(細胞)でも、肉体が動けなければ、身体のなかでジレンマが起こり、気にしたがって動こうとする力とそうでない力の綱引きが起こり、苦行を感じることになるのです。

 

 ベテランのYさんはその点をどのように調整していくかは、今後経緯を見なければなりませんが、西野流の気と肉体の関係を観ていくうえで大きな実験台になります。