
泣きだしそうな天気で半とき遅らせたら歩ける明るさになった。
今日は「木城まつり」でなんとか持ちこたえてほしいがどうなることやら。
自己を科学的に解明すると様々な基準を定めなければならない。
相対的に比較する必要がでてくるから。
歩くスピードを考えると、1キロ何分で歩けるか見れば比較できる。
競歩では基準は必要であるが、ウォーキングでは意味がなくなる。
氣がからだの内と外を巡りだすと、その時間を測ることができるのだろうか。
過去/現在/未来という流れがとまり相対化する。
まさに時間が止まってしまうのだ。
トランス状態になり覚醒するとコントロールできない。
ときという概念がなくなる。
身体という捉え方は、物理的な対象になり、身体と私は分離するが、
からだという捉え方は、からだが自分となりからだと一体になる。
覚醒中に意識できる状態になっても、時間を客観的に測定することはできない。
歩くたびに、時間の不確さに遊び、
時間を意識できるようになると、過去、現在、未来の流れがとまってしまう。