
気を巡らすバリエーションの一つに
「なむあみだぶつ」を唱えている。
堤防の雑草は日々様相を変えてゆくが、植物は一生その場で受け継いでゆく。
種を遠くに飛ばす工面は風や雨が担うが、僅かな場所でしのぎ合っている。
私たちは「雑草」と人間に役に立たないのでそう呼んでいるが、山川草木はすべて仏であり、西方浄土を願っているのは人間と変わらないと思う。
唐突な言いようだが、「なむあみだぶつ」と気を巡らすと、雑草が心なしか気を返すように感じる。
打ち捨てられているが、からだ(細胞)は動かざるゆえに健気に気をだして生きているのです。
刈られても流されてもしがみついて生きている姿こそ他律本願のこころです。